―――悪魔でも聖書を引くことができる、身勝手な目的にな。――――――――

                       『ヴェニスの商人』【シェイクスピア】より






























奇妙なバイト生活が始まって、だいたい一ヶ月が経過。



部活と平行させなければならないのが辛かったが、とりあえず精神はもっている。

時々、ストレスらしきもので腹痛が起こったりしたものの。

何とか両立は出来ていると思う、考えていたものよりもハードではない。










何だかんだで、やはり【この世界の概念】を受け入れることが苦痛だった。










その上で【言霊】の練習をさせられるものだから、なかなか上達が見られなかった。

まず【自分の念】なんてものを考えたこともなかったから、さらに混乱。

それを操れと言われたところで、空気を掴めと言われているようなものだった。

どうも上手く行かず、毎回毎回怒鳴られる日々がしばらく続いた。





さらに怒鳴るのが彼女だから、――沙羅さんだから、精神的なダメージが拡大する。





よくもまぁ泣かなかったな、と今となっては自分で自分を誉めたくなる。

これから先、彼女よりも強烈な怒声を浴びせる存在はきっといないだろう。

何か失敗が一つでもある度に、それがまるで百個のミスであるかのような感覚に陥らせる棘という棘。

けれど、そうだ、泣かなかったのは、彼女は別に私を貶しているわけではなかったからだ。

沙羅さんは、決して私を侮辱していたわけではなかった。



余りに時間がなかった私を、とりあえず最低限のレベルまで持って行こうと必死だったのだ。



星夜さんが主に言霊を教えてくれてはいたのだが、側で見ている彼女の方がいろいろアドバイスをくれた。

彼はどうやら最初からそのつもりだったらしい、沙羅さんにわざと発言させていた感じがした。

スパルタ、という言葉が確かに彼には似合わない。彼女の方がよっぽどその素質がある。

というわけで、とりあえず一番低いレベルではあるものの【闇影】と名乗る資格を私は手に入れた。



何とか、【酷】に襲われても抵抗出来そうだ。



完全に【強制帰還】させずとも、【傷を負わせる】くらいは出来るようになった。

それだけでも充分、酷が私を諦めてくれるならば随分と進化したもの。

日常を【まだ】今まで通りに過ごせるというのなら、多少の不利益は我慢しよう。





(よし、今日も行かないと)





気合いを少し入れて、校門を足早に出て行く。

部活も休みで掃除の担当でもないから、今日はいつもより長めにあの店にいられる。

今よりももっとコツを掴んで、出来れば酷を完全に強制帰還出来るようになりたい。

別にレベルの高い酷を目標にしてはいない、滅多に狙われることなんてないだろうし。

とにかく低レベルの酷だけでも退治出来るようになれば、少しはあの店で働ける権利を得られる。

最近は、店に行くのが結構楽しかったりする。



(あの二人、意外に面白い所あるしな)



思い出し笑いで、不意に怪しく笑ってしまった。

周りには人気がないから良かったものの、気をつけなければ。

しっかりしていそうで、実は抜けている所もある。

まぁ余りに完璧な人間であればそれはそれで怖いから、ホッとしたのだけれど。

前に、晩御飯で口論している二人を見たときはどう対応すればいいのか分からなかった。

大の大人がそんなことで喧嘩せずとも良いだろう、と心で思っただけで決して口にはしなかったのだが。

どんな口論内容だったかというと、味噌汁の具のラスト一品をどうするかというもの。

大根か人参かで争っていたようだが、私がスタンダードに豆腐は?と言ったらそれで収まった。



一体全体、どういう神経をしているんだか。



(あれ以来、味噌汁見ると吹き出すんですけど)



家のおかずの時に、盛大に咽せて危なかった。母さんに吃驚されたから余計に焦る。

家族の誰にもバイトをしているなんて言っていない、それ以前に妙な世界に関わっていることすら言っていない。

変に詮索をされて困るのは私だ。

どうにかその場を繕ったものの、気をつけなければならない。

母さんは昔から勘が良く働く、隠し事を貫き通すには手強い相手。

細心の注意を払い続けなければならなかった。

母さんをこの世界に巻き込んではならない、迷惑をかけるわけにはいかない。

父さんはどちらかと言えば無頓着で、勘も鈍いから心配する必要はないのだが。



極力、余計なことはしないでおかないと。















   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *















「おっ、今日は早かったじゃねぇか」

「そういう日だったもので、―――あれ、星夜さんは?」

「買い出しだ、もう少しすりゃぁ帰ってくる」





乾いた音を立てながらスライドした扉、すぐに見えたのは沙羅さんだけだった。

相変わらずの古びた感じの店内、良く思えばこんな若い男女が住んでいるとは想像出来ない。



「買い出しって、食料品ですか?」

「いや、こっち関連」



それだけで理解出来てしまうのは、ある意味で喜んだ方がいいのか。

闇影関連の道具を買いに行ったらしい、いつも星夜さんがその役割だ。

もしくは、沙羅さんが行かせているのか。



「さて、じゃぁ復習と行こうか」

「え、ぁ…そうですね」



星夜さんがいないから、新しい言霊を教えてもらうわけにはいかない。

一昨日から練習しているものをちゃんと発動出来るかをやってみることにした。

なかなか上手く行っていない、今までやってきた中で一番【長い】言霊だから安定しにくいのだ。



「今日中には完璧にしてもらう、これが出来れば【中階級】の奴にも対抗出来るからなぁ」

「……別に、中階級と対面することもないと思うんですけど?」

「備えあれば憂い無しだろうが、グチグチ言ってんな。やれ」



けれど、それでも私如きがそんなレベルの高めの酷と会うのだろうか。

首を傾げたくなるが仕方ない、沙羅さんの指示には逆らえない。

ちょっと溜息をついて、すぐに神経を研ぎ澄ませた。

己を一点に集中させて、何度も頭に叩き込んだ言葉を空間へ解き放つ。










「 蝶の加護を授かり その身に宿すは幾万の羽衣

  神の息吹すら届かぬ 処女の両腕へ舞い込んで

  蒼天へと導く軌跡を刻み 雲雲を切り裂いて行け

                えにしだ
                金雀児             」










間違えずに言うだけでも、なかなか大変。

舌が回らない時は悲惨だ、何度も言い直さなければならない。

どうにか言い終えることが出来たので、最後にシメの一言。





「 強制帰還執行 」





慣れた感覚に襲われる、さすがにもう驚きはしない。

空間が捻れ、自分も一緒に巻き込まれるような、気持ち悪いと言えば気持ち悪い。

その流れに流されないようにしつつ、沙羅さんへ向けて言霊を発した。

彼女は私如きのレベルの闇影が扱う言霊に、傷一つ負うことはない。

どれほど強いのかは知らないが、私と彼女では雲泥の差があることは明らか。

だから逆に、言霊の威力を目一杯上げることが出来るから有り難い。

私の目一杯など、大したことはないのだから。





「おっ、良い感じじゃねぇか」





沙羅さんの片腕だけで、あっさり胡散霧消する。



パンッ、と良い音が響いたと思ったら、一生懸命発動させた言霊はいずこ。

眼を瞬かせて、沙羅さんの様子を見て、消されてしまったことが分かる。

彼女からすれば、羽虫を払うだけの行為だ。

軽く腕を振っただけ。

何だか、ここまで力の差を見せつけられると肩が落ちる。

まぁ、とにかく合格したようだ。あの言霊をものにすることが出来た。

星夜さんが帰ってくれば、次のものを教えて貰おう。



「よし、とにかくそのくれぇの言霊も出来たな」

「あり、がとう、ございます…」

「なら、とりあえず今日はもう帰れ」



――――――…?



次の段階へ意気込んだというのに、一体どういう事だ。

間抜けに顔を上げた私に、沙羅さんはあっさりと叩きつける。





「今日はもう何も教えねぇってこった、とっとと帰れ」





いやいや、ちょっと待ってくれ。

次々に段階を踏むのではなかったのか、時間がないから。

拍子抜けで、何だか納得出来ず、思わず反論してしまった。



「困ります、せっかく今日はまだ時間があるから――」



けれど、失念していたのだ。

沙羅さんに己の意見を主張したところで、無意味。

彼女の意志を変えることなど、私に出来るわけがない。





「俺が帰れつってんだ、言ってしまえば店長命令。従業員が逆らうな」





思いっきり、睨まれる。



全身に悪寒が走る、直後に恐怖に襲われた。

その眼光だけは受けたくなかったのに、緑が深く輝いていた。

良い兆候ではない、唾を飲み込んで後退した。

鞄は店の出入り口に置いてある、しばらくすれば手で引っ掴める位置にまで来ていた。



「気ぃ付けてな」



手を振られて、すぐに鞄を掴み上げて店を出る。

何が何だか分からない、どうして店から追い払われてしまったのだろうか。

ガタガタと私が飛び出した衝撃で扉が唸っているが、あっさり無視。

十キロマラソンを数秒でこなしたような気分、動悸が激しくなっている。

それでも走るしかなかった、何とかあの店から離れるしかない。





(あぁ、もう)





心のどこかで、惨めな気分が、湧いている。















   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *















『なーるほど、あいつの言霊見せつけた挙げ句、体力温存させやがったなぁ?脅しかよ』





喉で笑いながら、急いで家路を走る少女の背を眺める存在が一つ。



丁度万事屋の前に突っ立っているそれは、出入り口の扉へ視線を移した。

中にいるであろう人物に、わざとらしく念を発した。

陽に背いている瞳は、それでも輝きを失ってはいない。



燦然と、紫、だけは誇示されていた。




『俺のこともどうせ【気付いて】んだろ?何でてめぇらが手ぇ出さねぇか知らねぇが―――――』





ついでに、殺気も一緒に放つ。

それはあからさまな挑発であり、挑戦状。

宣戦布告を、したのだ。










『あいつはどっちみち、俺が【支配】させてもらうからな』










黒闇が独裁者である翼が、現れる。



背に出現した絶望色、はためいたそれは呆気なくその存在を連れて行ってしまった。

跡形もなく消えて、羽根一枚も残ってはいない。

まるで台風が一瞬だけ発生して去っていったかのよう、不自然な風が辺りに沸き起こってすぐに消える。




















「そんなこと簡単にさせるわけないじゃないですかぁ」





先ほどまで存在のあった場所に、立ったのは星夜。

強風の風を受けてシルクハットが飛びかけたらしい、手で押さえている。

そして限りない嘲笑を浮かべ、消えたそれに言葉を送る。

決して聞こえることのない、言葉を。










「あなたこそ、【支配】されないように注意することですね」










きっと、やってはならないことを、あの存在はしてしまった。

ある意味で合掌した気分になり、けれど手に荷物があるので星夜は諦めた。

そのまま足の向きを、万事屋へ向ける。

中にはおそらく、先ほどの存在から受け取った挑発で機嫌の悪い彼女がいる。

どうやって宥めようかと考えながら、けれど一つしか方法はないと星夜は悟る。










対象を完膚無きまでに叩き潰す、それしかやるべきことはない。